ブリッジ・ビルダー 第1回
フォース橋(鉄道橋)編
禍福はあざなえる縄の如し
田村伴次
(中日本建設コンサルタント褐レ問)
はじめに
 (社)日本建築家協会東海支部・機関誌「ARCHITECT」に、ご縁があって「橋の話」を連載させていただくことになりました。私自身は「港湾の専門家」で、橋の技術者ではありません。しかし港にも橋が必要で、私自身、港湾の技術者には珍しく、名古屋港で二、三の橋の建設に関係しています。
 そんなことで、橋をそれなりに勉強し、何より橋が好きです。連載では第1話から第3話までを「フォース橋(鉄道橋)」、第4話から第6話までを「ブルックリン橋」の建設に関わる物語を記述させていただきます。
卜一マス・ブッフの栄光と挫折
 フォース橋は、19世紀末、英国の隆盛期、鋼を大量(58,000トン、全長2.46キロメートル)に使用した橋梁であると同時に、世界で初めて「耐風設計」がされた橋梁として著名です(図−1参照)。また、一人の著名な橋梁技術者サー・トーマス・ブッフ(Sir.Thomas Bouch,1823〜1880)の「栄光と挫折」の物語でもあります。
 英国の地図を頭に浮かべて下さい。フォース橋の架設地点は、スコットランドの首府エジンバラの近くの、フォース湾を横断する鉄道橋です(図一2参照)。この地点は北緯57度近く、北海に面した、非常に風の強いところと言われています。この少し北にはゴルフの発祥地と言われている「セントアンドリュース」があり、このセントアンドリュースのさらに15キロメートル北に「テイ湾」があり、この湾を横断して「テイ橋」が架設されています。
 この「テイ橋」は、1871年トーマス・ブッフにより設計され、1878年、当時世界最長の橋(橋長3,264メートル)として、ヴィクトリア女王御臨席のもと賑々しく開通式が行なわれました。
 この橋梁の記録が残っています。当初レンガ積みの橋脚に85径間のスパン割りで、主支間長60メートルの錬鉄トラス橋として計画されましたが、地盤が思っていたほど強固でなかったので基盤反力を軽減するため、6本のパイプコラム部材とそれを結ぶブレーシングで構成する橋脚に設計変更されました。同時にスパン割りも一部変更して、主支間長60メートルから73.5メートルに11径間、68メートルに2径間変更されて竣工しています。
 テイ橋の開通式に先立ち、商務省により検査が行なわれ、二つのコメントが残されています。その一つは、列車が橋梁上を経過するときは時速25マイル以下に抑えること。二つ目は、列車が強風下で橋梁上を通過するときの橋体の挙動を、今後さらに観測されたいというものです。検査官は、直感的にこの橋梁が水平力に対して、弱いことを危慎したのではないでしょうか。竣工当時の写真を見ますと、架設のベント材の上に桁が乗っている感じで、いかにも華奮な印象を与えます(図−3参照)。開通2年目、1879年12月28日、折からのスコットランド特有の強風により、列車もろとも橋梁は崩落して海に没し、75名の死者が出たと報告されています。落橋翌日の写真、引き上げられた桁と、桁内部に残る客車など生々しい写真が今でも残されています。
図−1 フォース橋の近況写真 図−2 フォース橋架設地点(出典「フォース橋100周年記念誌ザ・フォース・ブリッジ・センチュニアリー」/1990年発行)
テイ橋の落橋でフォース橋は工事中止
 さて、テイ橋の華々しい成功のもと、サーの称号を得た当時最高の橋梁技術者サー・トーマス・ブッフは、並行して「フォース橋」の設計も手がけており、栄光の頂点を極めていました。しかしこの事故は、明らかに横荷重に対する耐力不足で、度重なる「事故調査委員会」の査問に消耗したサー・トーマス・ブッフは、事故後わずか4ヵ月で58歳の生涯を閉じました。まさに「禍福はあざなえる縄の如し」です。
 このようにして、「テイ橋」は落橋しますが、短い「存命の期間」に十分経済的であることを証明し、新しく橋梁が再建されました。新しい橋梁は、橋脚を「鋳鉄製門型橋脚」として変更され、使用鋼材も1日橋の約2.5倍、26,000トンを使用し、剛度を上げて再建されています。落橋とともに海底に没した機関車は引き上げられ、その愛称も「ダイバー」と各付けられて、その後40年間も働いたそうです。
 サー・トーマス・ブッフの計画した「フォース橋」は、すでに基礎部が着工されていました。その計画図を見ると、4塔の橋脚と2支間、支間長488メートルの「吊橋」で設計がされています。設計図を見る限り補剛桁の剛度が、いかにも小さいように感じられる橋梁です。盛大な着工式のもと基礎工事が始められた直後に、原設計者の設計した「テイ橋」の思わぬ落橋事故により、直ちに「フォース橋」の基礎工事は中止となり、原設計者は失意の内に没してしまいます。
図−3最初のテイ橋(落橋)の全景(出典『世界の橋」/丸善2001年3月発行)
一世紀を越えて供用されているフオース橋
しかしながら英国の最隆盛期の19世紀末、経済発展の要請から、新たな設計者により設計が再開されます。新しい設計者はジョン・ファウラー(John Fow1er)卿と、ベンジャミン・べ一カー(Benjamin Baker)です。この二人が設計し、1882年〜188昨にわたり建設された「フォース橋」は、すでに一世紀を越えて供用されています。1890年3月4日「時のプリンス・オブ・ウエールズ」をお迎えし、最後のリベットを打設する記念行事が行なわれ、開通の運びとなります。
 一世紀を迎えた1990年は大変な記念行事事が催されました。春の3月から、オープニングの行事があり、記念マラソン、ジャズフェスティバル、写生大会、花火大会、フォース橋を歩いて渡る会、など10月までいろいろな行事が催されました。また、Tシャツや、帽子などの「記念グッズ」もたくさん用意され、飛ぶように売れたそうです。
 フォース橋は、フォース湾のくびれた所を結んでいます。北側がノース・クインズ・フェリー、南側がサウス・クインズ・フェリーで、それぞれに主橋脚が建設され、中央のインチガヴィー島の主橋脚とで、計3主橋脚2径間の「キャンチレバートラス構造」でつくられています。写真でわかるように、きわめて「剛度の高い構造」となっています。
 この辺りのことは第2話で、少し細かく触れてみます。橋というものは、それ自身高い経済効果を持たらすものですが、付帯的に架設地点にも大きい影響を与えることがあります。架設時の写真を見ると、最初は何もない田舎の海岸に労務者の住居が建ち並ぶ殺風景なものでしたが、現在は美しい住宅が建ち、水遊びや、ヨットハーバーとして素晴らしい環境を与えています。また「橋梁の景観」も、場所のポジションを高める重要な要素となっています。
田村伴次(たむら・ともつぐ)/1937年長野県北安曇郡小谷村生まれ。
名古屋工業大学卒業後、1959年名古屋港管理組合に入り、1996年に退職。同年大同工業大学非常勤講師を務めるほか、中日本建設コンサルタント鰍ノ勤務し、現在顧問として活躍。