2003年までの文章は雑誌からスキャニングして作成しておりますので、誤字がありましたら申し訳ありません。

ロボット好きの日本人 第3回

江戸からくり師は総合科学者
末松良一
(名古屋大学大学院工学研究科教授)
江戸からくり師は総合科学者
 江戸時代において、竹田からくり芝居以降、活躍したからくり師の代表をあげれば、次の3人であろう。
細川半蔵頼直(からくり半蔵)
田中久重(からくり儀右衛門)
大野弁吉(中村弁吉、一東)
 徳川幕府は、統治・権力集中を図るため、鎖国と同時に、新規工夫・発明をご法度とし、産業の機械化を禁止した。ただし、神事と祭事に関わることは例外として認めた。上の3人のからくり師に共通する特徴は、単にからくり人形の製作技能に優れていたというだけでなく、数学、天文学、医学など、科学技術全般にわたる総合科学者だった点にある。彼等に代表される江戸からくり師たちが、鎖国中の日本において、長崎から入る西欧の科学技術を吸収し、根付かせ、日本独自の技術を発展させ、明治開国以降の工業近代化に貢献したのである。現在の技術立国日本の基礎を築いたのは、江戸からくり師であるといっても過言ではない。
 以下、江戸からくり師の代表3人の活躍ぶりを簡単に紹介する。
図1 「機巧図彙」首巻と上巻の初頁
細川半蔵頼直著  「機巧図彙」
 細川半蔵頼直(174!-1796)は、土佐藩出身で、父が生家建設の折、大工・建築技術を学び、江戸、京都に遊学し暦学・儒学を修めた。京都で、写天儀、行程儀(万歩計)を製作した記録がある。50歳頃、郷土の小川に架かる橋桁に、「天下に名を上げずんば、再びこの橋を渡らず」と刻んで上京した話は有名である。
 機巧の設計書「機巧図彙」は、半蔵の没年の1796年に出版された。
 「機巧図彙」は、首巻・上巻・下巻の3冊からなり、首巻には柱時計、櫓時計、枕時計、尺時計の4種の和時計の設計製作法が、上下巻には、茶運び人形、段返り人形、品玉人形など9種類のからくり人形の製作法が、豊富な設計図とともに詳述されている。重力、磁力、弾力を巧みに利用した機構の詳細が、製作上の注意を付して記載されているのである。
 200年以上も前に出版された「機巧図彙」は、世界的に見ても珍しく、機械工学原書として貴重なものである。昭和40年代に、立川昭二氏や七代目玉屋庄兵衛の努力により、「茶運び人形」が復元されたのも、この「機巧図彙」の存在があったからである。半蔵は、西欧の暦学を修め、数学、物理学、天文学に精通していた。寛政の改暦にも幕府暦方として参画した。
図2「弓曳き童子」 「万年時計」 図3 田中久重と無尽灯
エジソン型大発明家  田中久重
 からくり儀右衛門こと田中久重(1799-1880)は、久留米の飾り職人の子として生まれた。幼少の頃から、織機や祭りのからくり興業に興味を抱き、25歳で修行の旅に出、35歳で大阪に居を構え、天文暦学「土御門家」に入門、53歳の時京都に「機巧堂」を開店した。終身、向学心旺盛で、「世に喜ばれるもの、役立つもの」を創り続けた。
 「万年時計」の名称の由来は、一度ゼンマイを巻けば一年中(昭和20年代の検証では220日程)稼動するという意と日付け・カレンダー時計の意との説がある。「万年時計」には、文字盤が6面ある。第1面は、スイス製の時計を用いた洋式時刻表示で、すべての他の面の針等の動きは、この時計機構に連動している。第2面は、和時計表示(子の刻、明け六つなど)、第3面は、二十四節のメモ用文字盤、第4面は、七曜(月、火、水など)表示、第5面は、十干十二支日付表示、第6面は、月面表示と日付け表示である。文字盤下方の6面台は、うさぎ、亀、鶏などが描かれた七宝絵図で美術的評価も高い。さらに、天上部には、日本地図の上に現在の太陽と月の位置を示す表示装置まで搭載されている。春夏秋冬の太陽軌道の傾きは、京都のそれに一致しているというから驚く。
 田中久重は、「弓曳き童子」や「万年時計」の製作者として有名だけでなく、庶民の生活に役立つものも数多く考案している。その中の1つに無尽灯がある。
 無尽灯は、空気圧を利用して灯油の補給と照明火力を大幅に向上させたものである。その出現により、夜の商いが可能となったと言われている。
 久重は、55歳で佐賀藩精錬方に招かれ、蒸気機関による船舶や機関車模型を製作した。佐賀藩精錬方絵図には、中央に蒸気機関車模型が走るのを取り囲む武士の姿と右に蒸気船模型も描かれている。
 1873年(明治6)、久重(75歳)は、東京に日本最初の機械製造会社である珍器製作所を設立し、モールス電信機の製造、電話器の試作なども行なった。後継者の2代目田中久重は、1882年(明治15)に田中製作所を設立し、各種計測機器、家電品、各種工作機械、ケーブルから鉄橋までを製造販売した。この田中製作所が、芝浦製作所、東京芝浦製作所を経て、現在の株式会社束芝へと受け継がれている。
図4 佐賀藩精錬方絵図と蒸気機関車模型 図5 根付け茶運び人形とエレキテル
日本のレオナルド・ダ・ビンチ   大野弁吉
 大野弁吉(1801-1870)は、京都羽根細工師の子として生まれ、田中久重と同時代を歩んだが、久重とは対照的な人生を送っている。
 20歳頃長崎に出て、医学、天文学、理化学を学び、さらに対馬から朝鮮に渡り、馬術、砲術、算術を究めたという。30歳頃妻の実家である石川県大野村に移住し、没するまでこの山村で過ごした。京都、東京で活躍した田中久重に対して、清貧に甘んじ、山村の破れ屋に住んだ弁吉は、時として、奇人・変人扱いされたこともあったが、弁吉に関する研究が進むにつれ、数々の偉業が明らかになり、国立科学博物館主任研究員鈴木一義氏をして、日本のレオナルド・ダ・ビンチと言わしめるほど、その評価が高まってきた。
 根付けというのは今流に言えばストラップ飾りのことで、数センチの大きさで、象牙の小さな盃を置けば、茶運び人形として動くという。弁吉の彫刻家としての技能を示す逸品である。
 また、エレキテルは、ボルタ電池により電気を起こし、握り棒を両手に持たせ、円盤を回転させるとビリビリと電気ショックを受ける、現在の電気マッサージ器である。エナメル線がない時代に、電線を被覆するのに絹糸を用い、細い絹糸を電線に巻く機械を考案して作ったものである。
 弁吉は、「八線算数表」「測量三角法」「応象寛暦」などの天文・暦数学の著作も残し、地動説を示す地球儀や、護岸工事用の測量機器も製作している。自作の写真機による妻との記念写真も残されている。弁吉が著した「一東視窮録」は今で言う科学百科事典で、医学・理化学・機械工学に関する当時の最新科学技術が網羅されている。
 弁吉が、なぜ京都や東京に出て活動しなかったかは、次の弁吉の言葉から察することができる。「知と銭と閑の三つのもの備わざれば、究理発明すること能わず」と。弁吉は、銭を最小限にし、知と閑を大切にしたのだと思う。だからこそ、多くの書物を著し、幕末の加賀藩にあった科学者サロンに参加し、後進の指導にもあたることができたのだと思う。その後進には津田吉之助もいて、現在の絹織物機械会社「津田駒」へと受け継がれている。
 以上、江戸からくり師を代表する3人が、単なるからくり師としてだけでなく、近代日本工業化の基礎を築いた総合科学者であったことについて述べた。
20世紀は分化の時代、21世紀は?
 アダム・スミスが、「国富論」の中で、分業化・細分化の経済的効果を指摘して以来、20世紀はまさに専門化・分業化の時代といえるのではなかろうか。
 トランジスタの発明、半導体製造技術の革新、マイクロコンピュータの発達が、自動化・大量生産技術に拍車をかけ、先端技術を駆使した工業製品が、少し前には考えられないほど安く消費者の手に入るようになった。同時に学問の分野でも専門化・細分化が急速に進んでしまった。
 現在の日本に、田中久重や大野弁吉のような、総合科学技術者が何人いるだろうか。21世紀は、総合化・融合化の時代になってほしいと願うのは私だけであろうか。自分の専門以外のいろいろなものを見て、触れることに努力しよう、会議漬けの仕事から少しでも多くの閑の時間を見つけようと思うこの頃である。