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中部文化論D

 職人の技・からくり人形

安田文吉

(南山大学人文学部教授)
富嶽三十六景にみる名古屋の職人技
 北斎の浮世絵に「富嶽三十六景」というのがある。武蔵江戸、甲斐、相模、駿河、遠江、二河、尾張、信濃、常陸、上総の各地から見た富士山の絵だが、その中の一枚に、名古屋から眺めた富士山がある。「富嶽三十六景尾州不二見原」というのがそれだが、あまり関心をもって見られていないせいか、北斎の「尾州不二見原」から見た富士の絵といっても、その図柄を思い出す人はほとんどいない。しかし、図柄を説明すると、「ああ、あれか」と思い当たる人が多いのも確かだ。つまり、図柄は記憶にあるが、それが、どこから見た富士山なのか、意識されていないということだ。「尾州不二見原」は、現在の名古屋市中区富士見町(旧不二見町)あたりで、ここから富士山が本当に見られたかどうか、今となっては確認のしようがないが、地名からは富士山がみられたことになる。二見浦の夫婦岩の間からでも富士山が見られるのを思うと、おそらく見えたのであろう。そこで、その図柄だが、すでに竹のたががはまっていて胴は丸くできているのに、まだ、底板を入れてない大きな木桶の胴を通して見た小さな富士山である。傍らで、桶職人が手斧で胴板を削っている。ここから、名古屋を代表する職人技の一つが木桶職人であるということがわかる。このほか職人の働きを描いている図柄が、遠江山中(樵(きこり))、江都駿河町三井見世略図(瓦葺)、本所立川(大工)と二つあるが、中でも、名古屋の木桶の巨大さには驚かされると同時に、珍しい職人技が名古屋にあることに大いに注目したい。
中部圏は伝統工芸のメッカ
 名古屋は伝統工芸の宝庫だ。木桶の外に、名古屋友禅、名古屋扇子、名古屋和蝋燭、名古屋仏壇、名古屋仏具、名古屋提灯、名古屋節句人形、名古屋桐箪笥、名古屋黒紋付染、有松・鳴海絞、尾張七宝、履物・鼻緒などがあり、その他県内には、常滑焼、三州瓦、瀬戸染付焼き、赤津焼、小原和紙、岡崎石工品、三河仏壇、二州岡崎和蝋燭、豊橋雛などがある。これらを愛知を除く中部六県(岐阜・三重・静岡・福井・石川・富山)に広げると、ここにも81もの伝統工芸がある。中部圏には、なんと伝統工芸が多いことか。
 僕の父は、位牌屋である。職人の世界は完全分業で、位牌の場合、木地師(木地屋)が屋根から台までを彫ると、問屋を経て塗師屋へ、塗師から今度は箔(金箔)屋へ、ここで完成して、再び問屋へ。そして、ここから全国の仏具屋、仏壇屋へと出されていく。仏壇の中の位牌を見ればすぐわかるが、戒名の彫って(書いて)ある板の下の台に相当する部分に、蓮花、花菱などといったいくつかの板が重ねられている。位牌には、このほかに、戒名の書いてある板の代わりに、屋根つきの箱のものがある。この箱の中には、十枚の漆を塗った板に戒名を書いたものが入っている。お盆の時などに、これらの板を繰り出しては並べたりするので、この位牌を「繰り出し」と言う。名古屋では、父をはじめ、父の弟や父の親戚がこの繰り出し位牌を作っていた。その伜(せがれ)の僕も見よう見まねで、位牌を作ったりするし、鑿(のみ)や切り出しの扱いも慣れたもの。職人の技は、親から子へ、親方から弟子へ、仕事姿を見せながら、伝えていく。一つひとつ教えてくれるわけではない。こんなことで、職人気質もよくわかっているが、頑固一徹、融通のきかない、ただひたすら良い品を作ることに集中する。跡を継がなかった僕がいうのも面はゆいが、こんな職人気質が僕は好きだ。
技の粋が集約された山車からくり
 このような職人技の中でも、この地域にもっとも特徴的なからくり人形山車を取り上げる。からくり人形山車というと、すぐ高山祭の山車が浮かぶが、実は愛知県は、全国に残っている山車からくりの7割が集中する。とくに、尾張地区は山車からくりのメッカなのである。祭に曳き廻される神輿や山車は意匠を凝らし、華やかに飾り付けられる。この御輿や山車の製作には大工や飾職の技の粋が集められるが、山車の飾り付けもまたさまざまな工夫が凝らされた。山車に人形が飾られるようになったのは、祇園祭がその嚆矢(こうし)で、能などの一場面を模した人形を飾った。今も、各地のこうした人形飾りの山車も残っている。しかし、この人形たちが動き出せば、その魅力は倍増するに違いない。こうした夢に呼応するように、江戸時代の初め、欧州から機械時計が伝来した。ここに用いられた歯車やぜんまい、滑車などを応用し、さらには糸を操って、動く人形を作り出し、山車の上で動かして見せたのが山車からくりである。
 元和5年(1619)、名古屋城内に東照宮が創建された。『尾張年中行事絵抄(おわりねんちゅうぎょうじえしょう)』によると、その年の祭に、下七間町(しもしちけんちょう)では、大八車(だいはちぐるま)二輌に西行桜の能人形を飾って曳いたが、次の年には、牛若丸と弁慶の人形が廻る「橋弁慶」のからくり山車に変わったと記されている。その後、この東照宮の祭は毎年4月17日に盛大に催され、各町内から九台の華麗に飾られたからくり山車が出た。華麗に飾られた山車は、競子(せこ)の行列を従えて、「寅の刻(午前四時頃)頃より、御園(みその)御門の枡形(ますがた)迄」引き込み、「辰の上刻(午前八時頃)、御土居畔(おどいぐろ)より車を引き出し、御宮の正面へ、各車を進めて灘子をなし、人形のからくりあり。畢(おわり)て、本町(ほんまち)御門へ引き出」された。九台の山車は、下七間町の他、上畠町の「雷神」の車は承応元年(1652)、桑名町(くわなまち)の「湯取神子(ゆとりみこ)」の山車と本町の「狸狸(しょうじょう)」の山車も万治元年(1658)に作られたものであった。また、伝馬町(てんまちょう)では、元禄4年(1691)「梵天王(ぼんてんおう)」のからくり山車を作ったが、享保18年(1733)に「林和靖(りんなせい)が鶴を愛する」態のからくりに変わった。山本飛騨掾(やまもとひだのじょう)の作という。宮町(みやまち)では、寛文元年(1661)に「加藤清正の石引」の車を作ったが、宝永4年(1707)には「竹武嶋(ちくぷしま)の竜神」車となり、さらに「唐子遊び」に変わった。中市場町は宝永元年に「石橋(しゃっきょう)」のからくり、「獅子」の車、京町(きょうまち)は宝永4年に「小鍛冶(こかじ)」の車を作った。そして、上(かみ)長者町では、初め「鐘巻道成寺(かねまきどうじょうじ)」のからくりを作ったが、享保保17年(1732)「二福神」の車に変わった。宮町の「唐子」と京町の「小鍛冶」は大坂の
竹田近江大掾(たけだおうろのだいじょう)の作、本町の「狸狸」は京の山門山城守、市場町の「石橋」と中長者町の「二福神」は京の人形師吉田平十郎の作と伝える。この東照宮祭の山車が愛知の山車からくりのはじまりと思われる。
時計技術から山車からくり誕生
 『尾張志』によると、名古屋には代々津田助左衛門を名乗る時計師がいた。徳川家康に朝鮮国から献上された自鳴時計が壊れた時、京都の津田助左衛門という細工好きが駿府に呼ばれて、これを修理した。その後、助左衛門は尾張藩に抱えられ、以来、津田家は代々知多郡大野村に住んで、この地の鉄鋼鍛冶を統率したそうである。だから、名古屋にはかなり早い時期から機械時計の技術が伝わっており、山車からくりが生まれる土壌は整っていたのである。元和6年(1620)に作られた下七間町の「橋弁慶」のからくりの製作者は不明であるが、「甚目寺の絵馬から思ひつきし趣向」というから、地元で製作された可能性が高い。また、上畠町の「雷神」・桑名町の「湯取神子」をはじめ、各町の当初のからくりも、作者を伝えないものが多いが、案外、地元製作ものではなかったろうか。
 一方、上方では、寛文2年(1662)、初代竹田近江少掾が大坂道頓堀で竹田からくり芝居を開設し、そのからくりの精巧さで観客の目を驚かせた。また、元禄13年(1700)には山本弥三郎が禁裡にからくり細工を叡覧に供して、人形細工人として飛騨掾を受領している。飛騨掾は浄瑠璃作者としても活躍、京・大坂を中心に、正徳(1711〜1716)頃まで操り芝
居を興行した。朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』によれば、竹田からくりは元禄からしばしば名古屋で興行しているので、この頃から上方のからくりが名古屋に入ってきたと思われる。ますます盛大になりつつあった東照宮祭の町方は、さっそくその目新しいからくりに関心を寄せ、新たに山車を作り直した。これが、宮町の「唐子」、京町の「小鍛冶」、本町の「狸狸」、市場町の「石橋」、中長者町の「二福神」だったと考えられよう。
山車の多くは戦火で焼失
 この名古屋東照宮祭については、伊勢門水(いせもんすい)も「名古屋まつり』でその華やかさを詳細に記しているが、山車のほとんどが戦火で焼失してしまい、残念ながら現在では見ることができない。若宮八幡社も名古屋城築城以来の由緒ある神社で、6月15日の祭には八輌のからくり山車が曳かれていたが、やはり戦火でほとんど焼失してしまった。焼け残った福禄寿の頭は、延宝4年(1676)に住吉町の山伏多門院作とあるから、かなり早い時期からからくりが行なわれていたことが窺われる。
 また、成瀬氏の城下、犬山の針綱神社では、寛永12年(1635)に祭礼が始まり、慶安2年(1649)頃から城主の奨励によって車山が作られた。現在では、4月17日の本祭の日、各町内から13台、三層の豪華な車山が出され、町を曳き回された後、神社の境内に勢ぞろいして、車山の上で人形からくりが廻される。このからくりのうち、魚屋町の「乱杭渡り(らんぐいわたり)」、中本町の「西王母(せいおうぼ)」、上本町の「逆立ちの唐子」は、名古屋の藤吉の作で安永年間(1772〜1781)のもの、また、下本町の「応合子(おうごうし)」も同年代のもので名古屋の文吉離三の作と伝えられる。この犬山の車山は、名古屋東照宮のそれを意識して作られたものだというが、当初のものについてはよくわからない。現在知られるところでは、安永期の名古屋の竹田系の人形師が作ったものがいくつかある。
 尾張の山車からくりは江戸中期から行なわれている所が非常に多い。これは、享保15年(1730)11月、七代藩主となった徳川宗春が、領内の活性化を図って、大いに祭礼を奨励したので、町や村では祭を華やかにすべく、競って山車を作り、その上でからくりを廻したからである。しかし、この頃の山車がそのまま今まで残っている例は少なく、前述の犬山を始め、宝暦以後のものが非常に多い。名古屋では、宝暦年間から竹田からくり名代で芝居輿行が行なわれていることを考え合せると、この頃から名古屋に、竹田系のからくり人形師が根を下ろして活躍するようになったのであろう。また、この宗春の時代に京のからくり人形師初代玉屋庄兵衛も名古屋にやってきた。玉屋庄兵衛はそのままこの地に住み着き、現在の九代目まで代々、からくり人形を作り続けた。現在も廻されている人形には、代々の玉屋庄兵衛の作、あるいは修復・復活したものが非常に多いのである。