2003年までの文章は雑誌からスキャニングして作成しておりますので、誤字がありましたら申し訳ありません。
又、写真は今後スキャニングして挿入させていただきます。

ロボット好きの日本人 第5回

各地の祭りで活躍する山車からくり
末松良一
(名古屋大学大学院工学研究科教授)
中部地区は山車からくりの集積地
 日本人にとってロボットのルーツである「からくり人形」は、それがどこで演じられるかによって、座敷からくり、舞台からくり、山車からくりに分類される。茶運び人形や弓曳き童子は座敷からくりの代表であり、江戸時代に見世物興行で一世を風靡した竹田からくりは舞台からくりである。今なお全国各地の祭礼で繰り出される山車の上山(うわやま)で演じられる「からくり人形」が、山車からくりである。
 山車からくり人形は、北は茨城県日立市、新潟県小千谷市から、南は九州八女市まで日本全国約50地区の祭りで毎年主役を演じている。
 愛知県知多半島の半田市、碧南市などから名古屋市、犬山市、津島市、岐阜県美濃、高山、古川を経て、富山県新湊市、高岡市までを、山車からくり街道といわれ、旧尾張藩に関係する地区に全国の7割の山車からくりが集中している。
 八代将軍徳川吉宗は、あらゆる分野の新規機械・機器の仕出し(発明工夫)を禁止した(1726年)。ただし、神事・祭事と見世物に関することは、例外とした。一方、吉宗に将車職を奪われた七代尾張藩主徳川宗春は、根っからの遊び好き、お祭り好きだった。吉宗の倹約令に反して、宗春の奨励により東照宮祭は、豪華絢爛を極めていった。名古屋を中心とした周辺地区の山車からくりは、東照宮祭の影響を受けたものが多い。玉屋庄兵衛、鬼頭二三、竹田藤吉、隅田仁兵衛ら尾張の木偶師(でぐし、人形師の意)たちが、次々と工夫をこらしたからくり人形(木製ロボットたち)を創り出していった。
図1 名古屋東照宮祭の版画(明治期) 図2 2本の差し金を用いて、唐子を蓮台の上で逆立ちさせる
山車からくりの仕組み
 山車からくりは、通常2,3体のからくり人形から構成されている。題材は、能楽や神話・民話に因んだものが多い。大黒、布袋など七福神、浦島太郎、橋弁慶なども各地の山車からくりに登場する。また、唐子(からこ)と呼ばれる中国・朝鮮の服装で飾った子ども人形が主役を演ずるものも多い。なぜ唐子なのかは、足利幕府から明治時代まで続いた朝鮮通信使の影響を受けたものと思われる。
 山車からくりの操作法は、大別して「糸からくり」と「離れからくり」に分類される。
 「糸からくり」は、人形の頭、手足などの動きを、10数本から30数本の糸で操作するからくりで、これを2,3人がかりで人形の下から操作する。鼓、鈴、扇子などを持ち、お囃子に合わせてさまざまに踊る。また、巫女が竜神に、文殊が獅子に、美少年が猩猩に、などの面かぶりの早業、さらに、人形自体が神社や鳥居に素早く変身するのもあり、見るものを楽しませる。
 「離れからくり」は、唐子人形などが、蓮台や枝に乗り移って「片手逆立ち」をしたり、鉄棒に登って「大車輪」を見せたり、空中に並んだ枝に次々と飛び移っていったり(綾渡り)、階段状に配置された杭を下駄ばきで一歩一歩登っていく(乱杭渡り)など、人形が離れ業を演じるからくりをいう。
 図に示すように、まず人形のお尻から挿した差し金によって人形の頭、手足を操作し、蓮台に片手を突いた状態にした後、差し金を抜く。次に、別の差し金を、突き立てた片手に差込み、倒立させ、頭を振りながら鐘を叩かせるように操作する。もちろん、2本の差し金は、観客から見えないように扱う。観客からは、唐子が踊りながら蓮台に近づき、片手を蓮台の上に乗せ、片手で見事に倒立し、喜びながら鐘を叩くように見えるのである。
 次に、300年以上続けられているこの地の山車祭りで、伝統文化の継承・発展の観点から特徴ある祭礼2例を紹介する。
継続・工夫・発展の犬山祭
 犬山祭の始まりは、寛永12年(1635年)といわれ、それ以後昭和20年(1945年)の1年を除いて途切れることなく毎年催され、今年で367回目を迎えたという。犬山祭は、国宝犬山城を頂く山腹にある針綱神社の祭礼として始められた。
 私が犬山祭を初めて見たのは、5年ほど前である。名鉄犬山駅から徒歩15分ほどにある針綱神社前広場に、各町内から三層の構造をもつ13両の山車が勢ぞろいし、次々に江戸時代に考案されたからくり奉納が行なわれる。また、夕方になると、山車は365個の提灯で飾られ、ろうそくの灯火に揺れる宵山(よやま)が並んで町を巡行する。初めて見た犬山祭の印象は、人ごみに操まれながらも「見たい所を思う存分見ることができる」であった。それ以後、毎年犬山祭を訪れている。年々祭りの魅力が増してきているように思われる理由を以下に記す。
(1)多くの人たちに素晴らしい「山車からくり」や「宵山」を見てもらうために、針綱神社前広場だけでなく、犬山駅前広場でも6両の山車が出向き、からくり演技などを披露するようにしたこと。
(2)秋祭では13町内のからくり人形を針綱神社前広場に並べ、観客の目の前でからくり人形の演技を披露するようにしていること。
(3)岐阜県加子母村や鹿児島県日南市などと祭文化交流を行ない、互いの祭に招いて芸能文化の広がりを持つようにしていること。
(4)からくり人形の展示や九代目玉屋圧兵衛のからくり工房がある史料館、3台の山車などが常時展示されている「どんでん館」などの施設があり、からくり文化の普及に尽力していること。
(5)犬山祭保存会は外交的で、高山祭、秩父祭、祇園祭などや、近隣の保存会と熱心な交流を続けていること。
 からくり文化は犬山市の誇りであり、これを小中学校の授業に組み入れたいとする石田芳弘市長の試みや、高校生のからくり振興クラブの活動なども、犬山祭を支え発展させる力となっている。
図3犬山祭 針綱神社前でからくり奉納 図4 糸切りからくりの基礎部分(碁盤と大梭) 図5 久田見祭「首都移転」の糸切りからくり
独特の技法と稀有な継承形態の久田見祭
 久田見は、岐阜県加茂郡八百津町に属し、丸山ダムの上流部にある山中に広がる高原に位置している。そして久田見祭は、江戸時代初期に始まり、400年以上の歴史をもち、4月の第3土曜、日曜日の両日、久田見の氏神である神明・白髪両神社で行なわれる。6両の絢爛豪華な山車が引き出され、山車の上に設けられた舞台の上では、独創的なからくり人形劇が毎年繰り広げられる。
 まず、山車は、狭い道や坂道などを移動しやすくする2輪、2層構造である。からくり奉納時には、四方から竹ざおで支えて固定され、2層目がせり上がる。その屋根は、漆塗や朱塗、金銀の金具や見事な彫刻で飾られている。木々に囲まれた神社前に勢ぞろいした6両の山車の姿は、まさに華麗そのものである。
 久田見のからくり技法は、「糸切りからくり」と呼ばれ、「糸からくり」、「離れからくり」のどちらにも属さない独特のものである。
 碁盤の足内部がコロとなっており、大梭内の4本のロープでコロを4人で引っ張り回転させる。そして、碁盤の上にからくり人形劇を披露する舞台を載せるのである。すなわち、4個のコロの回転力を利用して、さまざまな仕組みのからくり人形が考案され、観客を楽しませる。驚くことに、毎年からくり人形舞台の出し物が変わるのである。
 山中で過疎地区の久田見祭が400年以上続けられている秘密を推察する。
(1)毎年、各町内で新しいからくり人形劇を創り出さなければならない。ろくろ首、神官の階段上り、橋弁慶などの古典的な題材から、首都移転、宇宙遊泳など今日的な題材まで、自由な発想のからくり人形が生まれている。
(2)祭関係者の禁酒、男女交際禁止、からくり技法門外不出の鉄則などの厳しい規律がいまだに固く守られている。
(3〕神社前でのからくり奉納時以外は、からくり人形舞台は風呂敷で覆われ、上演直前に風呂敷が取り除かれ、演技後すぐにまた覆われる。製作者・操り手・観客にとってもまさに真剣勝負である。ロボットコンテストと共通する真剣さがそこにある。
 以上、犬山祭と久田見祭という一見対照的な山車からくり祭を紹介したが、物づくりの楽しさを子どもたちや若者に継承していくという共通点が見られる。山車からくり祭の集積地が、世界的産業技術の中枢圏になっていることも無関係ではないと思う。