保存情報第6回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 黒川と御用水跡公園(名古屋市北区) 山上 薫/山上薫建築事務所

所在地:名古屋市北区

■発掘者コメント

 私が子どもの頃、 庄内川にかかる三階橋から黒川付近まで、 二筋の水路、 黒川と御用水が並行して流れていた。 その頃この二つの川は、 子どもたちにとって魚捕りや、 泳ぎをする格好の遊び場であった。 その後御用水は、 昭和47年から49年にかけて埋め立てられて、 御用水跡街園となり、 緑の散歩道として整備された。 夫婦橋から猿投橋までの約1.6kmは、 桜並木も美しく、 堀川の上流とは思えない緑豊かな川沿いの景観を形作っている。
 御用水は、 名古屋城北側のお壕に清浄な水を確保するため、 尾張藩主二代目光友がつくらせたもので、 寛文3年 (1663年) 名古屋城築城50年後に完成している。 取水口は、 竜泉寺西の庄内川で、 幸心、 瀬古を通り矢田川の下をくぐって上飯田に達し、 名古屋城に通じていた。 私が子どもの頃、 両側の堤はしっかりと切石で築かれ、 底にも石が敷きつめられていた。 この昔通りの御用水が、 歴史的遺構としてなぜ保存されなかったのだろうか。 埋め立てられてしまったことが返す返すも残念である。
 黒川は、 明治9年 (1876年)、 御用水に並行して開削され、 潅漑と水運に利用された。 水分け橋付近の庄内川から取水し、 三階橋付近で矢田川の下をくぐり、 辻町にでて南西に流れ、 堀川へとつながっている。 

データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 天永寺護国院薬師堂 場々大刀雄/場々建築設計事務所

■発掘者コメント

 本建物は、 護国院本堂であったが今は薬師堂と呼ばれている。 室町時代後期の建立で、 当初は茅葺きであったが、 庄内川畔であったため、 たびたびの川の決壊、 台風などの災害に遭い、 その都度、 修理・修復され、 現在の形になっている。 古い書き物によると縦6間、 横6間、 建坪36坪と書いてあるが、 現在は縦横とも5間、 入母屋造り、 桟瓦葺、 正面に1間の向拝が付き、 正側三面に切目縁を設けている。
 向拝柱は、 上下に粽を付けた唐戸、 面取の角柱で柱間に虹梁を架け、 柱上に連三斗を組んで、 その上の丸桁と手挟を受けている。
 虹梁の中央に龍の彫刻を施した中備を置いている。 内部は内陣の中央後方に4本の柱で囲まれて黒漆塗りの須弥壇を構え、 その上に同じく黒漆塗りの厨子を置いて薬師如来坐像を奉安している。 天井は内外陣とも、 格天井としているが、 外陣の天井板には、 彩画が施されている。 この建物の真正面南には仁王門が配置されており、 木造2階建てで、 1階左右に木調の仁王が安置されており、 一時期大須方面の寺に貸し出されていたが、 今は戻って薬師堂内に安置されている。
 10年程前、 金堂改築の際、 在来の仁王門を裏門に移し、 正面には新しく木造2層の山門を建立、 その時、 左右の仁王も木彫仏師により彫られ、 安置している。
 本寺院には国宝および数々の重要文化財が収蔵されている寺であるが、 本建物 (薬師堂) はたびたびの修理のため、 重文にはなっていない。
 すぐ東隣には寺の鎮守のためと思われる味鋺神社がある。 庄内川堤防上の道路からのロケーションは良いが、 最近土地が開発され林立する建物に多少遮られているのが惜しい。
 場所は三階橋を過ぎ、 水分橋を渡り切るとすぐ左へ曲がり、 坂道を下りて行くと、 500m位の位置の左側に裏門への通路があり、 伽藍がすぐ目の前にあらわれる。 

所在地:名古屋市北区楠町味鋺2-732
建設年:室町時代後期