2003年までの文章は雑誌からスキャニングして作成しておりますので、誤字がありましたら申し訳ありません。

「職人のわざに学ぶ」 第6回(最終回)

矢橋修太郎(矢橋大理石且ミ長) 折戸嗣夫(矢橋大理石褐レ間)
(車戸慎夫/車戸建築事務所)
 建築石材の老舗、矢橋大理石鰍フ応接棟(大正時代の名建築)にて、矢橋修太郎社長と、顧問であり国会議事堂の石工事にも携わった折戸嗣夫氏に石の世界についてうかがう。
昔の石工の世界
 まず、国会議事堂を立派に仕上げた、当時の石工の職人たちの様子を折戸氏に
語っていただく。
 「昔の石工が仕事を覚えるということは、まず尋常科を出て、13〜14歳で石屋に奉公に出ます。徒弟制度の時代ですから、そう簡単に仕事を教えてくれません。親方の奥さんの買い物の手伝いや子守りのみが当然です。昼間の自分の仕事も、鑿焼きのふいごの風送りだけです。親方、先輩の鑿焼きを見て盗んで覚えるわけです。自分で加工し据え付けできるまでになるには、徒弟に入って6〜7年、つまり20歳でようやく一人前の石工となるわけです。徴兵制度のあった時代ですから、軍隊へ行き兵役を終え、親方のもとで1年程お礼奉公をしたのち、親方から独立の祝いに道具一式をもらい、独立の運びとなるわけです。苦労に苦労を重ねて、体で覚えた技術ですから、気合いも入っていますし、職人魂、信念を持って仕事に取り組んでいました。石工は、賃金的にはかなり高い職種でして、腕の良い職人は食うに困るということはなかったと思います。そんな職人たちも、今では大半の方が亡くなられ、存命でも、もう腕を振るえる歳ではなく、その卓越した技が消えつつあるのは残念なことです」。
石工の技の残る建物 旧日本総領事館の前に立つ折戸氏
 昔の職人の技が残っている建築物は?
 「たとえば、皇居の堀端の第一生命館でしょうか。この建物はGHQが入っていた所で、外壁が14〜15p厚の稲田花崗岩で、鑿切仕上げが施されています。考えてみますと、この頃が本格的な建築物が建つ“はしり"だったと思いますし、腕の良い職人たちの支えがあった時代ですね。とくに、お堀端の正面の羽口を加工した職人は相当の腕を持っていたと思われます。じっくり見ると、外装の石の一枚一枚に職人の癖が刻まれているのがわかります。癖だけでなく人柄までも偲ばれますね。真っすぐに几帳面に鑿跡がそろっているものは、普通の石工の仕事でしょう。左下へ流れる鑿跡になりますと、これは間違いなく“鑿の切れる”職人の手によるものです。腕の良い石工は多額の日当を稼ぎますが、『宵越しの銭』は持たぬ心意気で、当時は吉原などの遊び場も華やかに栄えた時代ですから、ずいぶんとお内儀さんに気を揉ませたことでしょう。また几帳面に仕事をこなし、まさに石部金吉のごとく、奥さんの手作り弁当で日々仕事に明け暮れた職人さんの顔も思い浮かびます」。

折戸氏が昔、施工した中国・黄浦江左岸ガーデンブリッジ近くにある1口日本総領事館の正面玄関まわり
(1994年(平成6)6月に撮影されたもの)
石工の技の終焉
 石工の技が発揮できる建物が少なくなっているとのことですが、矢橋社長はいかに思いますか。
 「要因の一つは、低コスト化でしょう。バブルの功罪のうち、罪ばかりが目立ちますが、バブル期は石の世界にとってある意味で功であり、良き時代であったと言えますね。何十兆円という金が不良債権化して消え去っていますが、その何十分の一でも石の技を尽くしたものとして、形ある姿で費やされていたなら、後世に自慢できる貴重な社会ストックとして残ったことでしょう。それからもう一つ様式の問題があります」。
 現代建築には石の様式が似合わないと?
 「村野藤吾先生の時代までは、建築家が石を独自に様式化してデザインされ、われわれに提案されたといえるでしょう。われわれもその意匠の意図にかなうように技を磨き提案してきました。現代は現代の様式があり、ステンレスとガラスなどずいぶんと洗練された様式美を完成させていますね。石は風化に対して趣きが増しこそすれ、耐久性のある天然の素材なのです。ぜひ、石の持つ良さを活かした現代的な新しい様式を提案していただきたいものです。そのための技の取得、技術開発への努力は惜しまないつもりです」。
 村野藤吾先生のお話が出ましたが、もう少しその印象を折戸さんから。
 「村野藤吾先生、白井晟一先生、吉田五十八先生など、そのほとんどの作品のお手伝いをさせていただきました。石を大切に、うまく使われる先生方は皆そうなんですが、石のもつ意志のようなものをつかまれて、職人と一緒になって、それを実現しようとされていたのが今でも心に残ります」。
 名建築家が名建築を完成させるためには、多くの人々との心の交流なしでは不可能でしょう。
天然にも劣らぬ人工石
 その他折戸氏の思い出に残った建築物は?
 「若輩でありましたが、戦前、昭和16年から海軍の要望で上海の矢橋の分工場を運営しておりました。戦後は中国産の原石の買い付けなどで、中国各地を訪れましたが、上海に行く機会はありませんでした。7年程前、日中友好団体で上海に行く機会に恵まれ、昔の工場や施工した建物を訪ねてみました。さすがに工場はありませんでしたが、黄浦江左岸ガーデンブリッジの近くにある、『旧日本領事館』が高層ビルの問にひっそりと佇んでいました。見つけた時は本当にうれしくて、同行した家内から、結婚以来50年、初めて見た表情だったと冷やかされたんです。昭和17年頃となると、さすがに上海も物質不足で、外装人造石の原料のセメントなど、正規のルートでの入手はむずかしく、共同租界へ中国服を着て買い付けに行き、砕石も手づくり同然でつくったものです。愛着ひとしおの建物でしたから、置き去りにした子どもとの再会のごとく、手を触れ撫でまわしたものでした。外装のキャストーンの叩き仕上げで、ゴマ殻付きの柱や、透かし彫りの換気窓もすべて左官のコテ仕上げの手づくりです。人造石の表面は『蘇州みかげ」の砕石でしたが、砕石を多く現しセメント面を少なくすることが天然石に近づける方法で、コテ摺りの反復とノロ取りの手間を惜しまなかったので、満足できる仕上がりになりました。プロが見ても人工石とは気付かないでしょう」。
 石を大切にした建築家との思い出を書きとめていただくことを折戸氏にお願いし、現代の石の様式化に努力することを矢橋社長に約束して、社を後にした。それにしても、両氏の石への熱き情熱と深い愛情には頭の下がる思いである。
議長室の暖炉は「紫雲」という石でできている 国会議事堂は日本全国から集められた名石で飾られている。写真は中央広間。壁・柱は琉球石