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中部文化論C

 抹茶で一服

安田文吉

(南山大学人文学部教授)
まんじゅう屋とお茶屋のある街角
 「ごまゃぁすばせ(ごめんあそばせ)」「よう、おいらゃぁすばしたなも(よく、おいであそばしましたね)。一服どうでござゃぁますなも(抹茶で一服いかがでございますか)」。名古屋では、いや尾張一円では、客があると、必ずこう言って、まず、抹茶を出したものだ。三河でも同じである。このあたりは抹茶を飲む習慣が日常の中にとけ込んでいる。私の家でも、午前10時と午後3時には、必ず抹茶で「一服」の時間があった。お茶の時間になると、近所の人も三人四人と集まってきて、ワイワイガヤガヤ世問話に花が咲いたものである。「茶の湯」のようなこむずかしい作法はほとんどない。あり合わせの菓子、あり合わせの器で、抹茶を立てて飲みながら、ひとときの団欒を楽しむ。ライフスタイルが変化した最近では少なくなったが、こんな光景がどこでも見られた。近郷の田舎でも、野良仕事の合間、お茶の時間になると、畑や田んぼで抹茶を立てて飲んだし、野良仕事の途次に立ち寄った家で、縁に腰を掛けて抹茶を振る舞ってもらうなどということも多かった。こんな風だから、各町内とは言わないまでも、子どもがお使いに行けるくらいの距離の至るところに、「まんじゅう屋」と呼ばれる小さな和菓子屋さんと小さなお茶屋さんが、今もある。この小さな和菓子屋の自家製「まんじゅう」は見かけによらずうまい。また、お茶屋には、大方、西尾の抹茶が置いてある。ちなみに、まんじゅうの生産高日本一は名古屋、抹茶の生産高6割を占めるのは西尾市である。
 抹茶というと茶道を頭に浮かべ、堅苦しい作法をイメージする人も多かろうが、尾張辺りでは、もっと日常的な団欒の場に抹茶はなじんでいた。こういう習慣が広がったのは、いつの頃からだったのだろうか。
抹茶を飲む習慣
 お茶を飲む習慣は、当然のことながら、中国から入ってきた。奈良時代には、すでにお茶はあったが、これは野菜のようなものであって、飲むお茶ではなかったようだ。飲むお茶としては、空海(弘法大師)とともに唐に渡った永忠という僧が、持ち帰って嵯峨天皇に献上したのが最初であった。この時のお茶は、蒸したお茶を杵と臼で搗いた「団茶」と呼ばれるもので、これを粉末にして煎じ、甘味を付けて飲むお茶であった。この後、喫茶の風習は主に薬用として寺院で広まった。
 抹茶は中国で宋の時代に始まり、わが国に伝えたのは、栄西。栄西は、抹茶の製法などを記した、わが国最初の茶書『喫茶養生記』を著した。その後、婆娑羅(ばさら、ほしいままに派手にふるまう意)の時代になって、茶寄合(茶を飲む会合)で闘茶(茶の良し悪しを競う)が盛んとなり、さらに、一定の作法をもって抹茶が振る舞われるようになった。室町時代も後半になると、村田珠光や武野紹鴎(たけのじょうおう)などによって、「わび茶」が提唱され、「茶の湯」が京や堺の町衆の問に浸透、町衆の自由で豊かな経済力に支えられて、数奇をめざした抹茶を飲む文化は、千利休によって大成をみた。
三英傑と茶の湯
 「茶の湯」は地方にも広がり、これに関心を示す大名たちも多く現れるようになった。尾張・三河から出て天下を掌握したいわゆる三英傑も「茶の湯」と深く関わった。
 織田信長は、永禄11(1568)年堺を接収したのを機に、今井宗久や津田宗及といった茶人たちと親密な関係となった。この2人に利休を加えた3人を「茶頭」とし、茶会の奉仕や、茶道具の管理をさせた。信長が堺の茶人を抱え込んだのは、その財力のためであることはもちろんであるが、尾張時代から「茶の湯」に興味を抱いていた信長の数寄心が、文化の中心地にきて、大いに刺激されたからでもあった。信長の弟、織田有楽斎(うらくさい)は兄以上に「茶の湯」を愛し、本能寺の変で信長が倒されると、出家し、「茶の湯」に身を投じ、有楽流を起こした。ちなみに東京の有楽町は有楽斎の屋敷があったのでこの名がある。
 豊臣秀吉は、信長の武将として「茶の湯」を行なうようになったのであるが、「茶の湯」に対する執心は大変なもので、宗久や宗及をも重用したが、利休には絶大な信頼を寄せて、自らの「茶の湯」を導かせた。大坂城内に黄金の茶室と山里の草庵茶室を設け、また、貴賎を問わず、諸人の参加を求めた北野大茶湯(おおちゃのゆ)を催し、大気で庶民的な性格を反映して、豪奢とわびの両面の並存した「茶の湯」を実践した。淀殿の幼名は「茶々」であった。ちなみに、正室は「ねね」。
 徳川家康は、秀忠に二代将軍を譲って駿河に退いてから、古田織部(おりべ)を呼び寄せたり、小堀遠州をも重用。さらに、御三家の残した「駿府形見分け帳」に多くの茶器の名品が並んでいることからみても、やはり「茶の湯」に関心が高かったことが窺われる。
 この三英傑の「茶の湯」は、名物の茶器を集めて誇示し、「茶の湯」を権力の象徴として利用する、極めて政治的な側面を持っていたが、天下の覇者の「茶の湯」への執心は、抹茶を中心とする文化を大いに発展させた。
尾張・三河の「茶の湯」
 尾張藩は藩祖義直、その子二代光友が芸能にも才能を発揮した人物で、「茶の湯」も大いに愛し、多くの茶人を抱えた。紹鴎の孫新右衛門、織部の門人山本道句、一尾伊織などであったが、有楽流の松本見休が召し抱えられて以後、尾州の「茶の湯」は有楽流となった。城内の猿面茶屋と呼ばれる御数奇屋は、織部好みで、織田信雄(のぶかつ)が清洲に建立したものの移築というが、織田有楽斎の作とも言われている。義直が家康から譲られた茶器には名品が多く、徳川美術館に所蔵されている。
 三代将軍家光は、幕府の絶対権力を確立し、中央集権に成功したが、「茶の湯」を愛好し、小堀遠州を茶道師範とし、御茶道衆(御数奇屋衆)を定め、将軍の貴族化を図った。茶器の名物も権力の象徴として将軍家に集中しようとした。また、お茶壷道中の制度を定め、毎年宇治の新茶を将軍家に献上させた。尾西市歴史民俗資料館には、大名行列を凌く“ほどの盛行であった道中の数多くの資料が保存されている。
 堅固な幕藩体制の下で、三都(京・大坂・江戸)をはじめ各地の城下町には新興の武家貴族、富裕な町人が多く輩出し、その人たちが遊芸を行なうようになり、大名や大商人に限られていた「茶の湯」も急速にその底辺を広げた。
 六十二万石の城下であり、とくに享元期は、七代藩主徳川宗春の政治によって大都市となった名古屋でも、「茶の湯」の普及は目覚ましかった。武士の間では有楽流が流布したが、宗和流の中島正員、京から下ってきた千家流(千宗左)の門人町田秋波が、富裕な町人に広め、また、伊藤次郎左衛門や高田太郎庵のように京に上り、作法を修めて名古屋に戻ってくる茶人たちもあって、諸流の「茶の湯」が流行した。宗和流を学び、千家流原叟(千宗左)に学んだ河村曲全斎が曲全流を起こし、原叟門で名古屋に下った松尾宗二が松尾流を起こすなど、名古屋独自の流派も生まれた。時代は下るが、尾州久田流も起こっている。
お茶の生産地
 寛永末年に成立した仮名草子「仁勢(にせ)物語」に、「三河国岡崎といふ所に至りぬ。そこを岡崎とは、茶売あるによりてなむ、岡崎と思ひける」と記されている。江戸時代初期には、岡崎の茶売は有名であったらしい。「岡崎市史」によると、享保年間の岡崎の伝馬町には塩座と茶座があり、「一俵に付六文宛 宮崎茶は十四文」の座銭を取っていたことがわかる。この辺りには吉良(愛知県幡豆郡吉良町)の塩とともに、宮崎(同額田郡額田町)などのお茶の産地が控えていたからであろうが、東海道の宿駅で茶が売られていたということは、お茶に対する嗜好がかなり広がっていたことをも裏付けていよう。
「茶の湯」の大流行
 文化文政期(19世紀初め)、尾州では茶事が流行した。過熱というほどで、文政12(1829)年には、藩主が禁止令まで出している。これによると、「茶事の儀、近来各別に流行致し……若輩壮年の輩は、文武修行の妨げとも相成……御役人向け等は茶会等相催し候儀(そうろうぎ)遠慮いたし…銘々倹約の心得これ有る可く候。」とあって、江戸後期には尾張では、「茶の湯」は下級武士やかなりの庶民層まで普及していた。禁止令にもかかわらず、「茶の湯」は少しも衰えず、弘化3(1846)年には「時の流行は乱舞(らんぶ)(能)に茶の湯、碁会も頻りに行なわれ、能や灘子に狂言は、市谷元より大流行、尾張はまるで碁茶乱となる」(「青窓紀聞(せいそうきぶん)」所収「碁茶乱談」)と記されている。名古屋では、宗春失脚以後、抑えられていた芸能への関心は、文化初年頃から再び高まり始め、幕末には、碁や「茶の湯」、能狂言などを習う者も多くなり、芸事は市井に浸透した。こうした風潮の中で、「茶の湯」は日常の中に消化されて、冒頭に記したような喫茶の習慣が生まれたのであろう。
 「茶の湯」は、京都を始め、金沢、松江でも盛んだが、尾張・三河では、今も茶道を習う人が多く、抹茶を飲む人も多い。明治になって、西尾が抹茶の産地となった。近くに大産地を控えた尾張・三河では、抹茶はさらに身近な飲み物として親しまれるようになったのである。抹茶を介して、味覚を肥やし、陶器に親しみ、人の輪を広げる、この心豊かな習慣を大切にしたいと思う。当地には喫茶店が多いと言われる。これも実は「茶の湯」文化の伝統を継いでいるということかもしれない。
稲荷山茶園(西尾市)