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中部文化論 第3回

 いきいき伸び伸び宗春文化

安田文吉

(南山大学人文学部教授)
人間味あふれた殿様徳川宗春
 「尾張名古屋は(おわり一ッィィなご一やッワァ)城でもつ…………行くは若君万五郎」
 上の歌は昭和32年頃のNHKの連続ラジオドラマ「尾張太平記」の主題歌。尾張の若殿万五郎が「暴れん坊将軍」よろしく、着流しでぶらりと尾張城下へ現れ、悪者をやっつけるという痛快時代劇だった。この万五郎こそ後の宗春。私と宗春との出会いでもあった。
 尾張藩七代藩主徳川宗春は元禄9年(1696)名古屋生まれ。三代藩主綱誠(つなのぷ)の二十男、母は梅津の方(宣陽院)。幼名万五郎。享保14年(1729)8月、宗春が奥州梁川三万石松平義昌の跡を継いだ途端、享保15年11月27日に兄継友が急逝、思ってもみなかった尾張七代藩主となってしまった。宗春は、享保16年3月、自分の政治理念を述べた「温知政要」を上梓した。大藩の藩主が、自分の政治理念を出版するということは他には例がなく、内容も、当時の為政者としては画期的なものだった。
 全21カ条。序文冒頭に「古より国を治め、民を安んずるの道は、仁に止る事也とぞ……日夜慈悲愛憐の心を失ず。万事簾直にあらんがため、思ふ事を其侭に和字に書きつづけ」たとある。御三家筆頭尾張の藩主となった宗春の、為政者としての抱負である。政治の根本は「仁」。さらにその運用に当たっては、巻頭に「慈」巻末に「忍」の字を印刷、慈悲と忍耐が重要で、慈悲は日(太陽)の如く、忍耐は月の如し、日と月を合わせると明となる、世の中明るいことがもっとも大切とする。具体的には「質素倹約は大切だが、ただ倹約するだけではダメで、お金は生かして使うことが大事」「法度(はっと)(規制)は増やせば増やすほど、法度破り(罪人)が増えるだけ、法度は必要最小限でよい」「罪人を罪するときは、絶対誤りの無いように、極刑にいたっては極力注意を」などと言っている。そのせいか、死罪を免れた罪人で牢屋はいっぱいになったという。宗春は、法度は最小限にして、規制を緩和し、できるだけ民衆がのびのびと生活を楽しめる政治をすれば、民衆の消費が進み、経済も活性化して、国の繁栄は望めると考えたのである。実に人間味あふれた殿様だ。
賑わいにあふれた名古屋・尾張一円
 享保・元文年問の宗春治下の名古屋の繁栄を、北は広小路から南は葛町まで、本町筋を中心に活写したのが『享元絵巻』。絵巻の右端(巻頭)は広小路筋の神明社(現朝日神社)。ここの境内に「大あやつり(人形芝居)」。広小路の南側の小さな堀の本町筋に架かった橋を渡ると、賑やかで派手派手しい商い店の町並み。左手に若宮八幡社、右手に大乗院(現在廃寺)、清寿院(現在廃寺)、大須観音、七ツ寺、西本願寺別院、どこの境内でも芝居興行が。山下金作(若宮)、佐渡島長五郎・荻野八重桐(大乗院)など、どの小屋も当代一流の人気役者が来演しており、さながら江戸・京都・大坂の大歌舞伎のよう。さらに下ると、左手に東本願寺別院、冨士見原遊廓、右手に西小路遊廓、葛町遊廓(これらを三廓と言う)、古渡山王稲荷が。名古屋の城下町はここまでで、ここに大木戸があった。商店の繁盛のさまが細かく描かれ、かまびすしいほどの賑わいがそのまま伝わってくる。
 宗春は名古屋・尾張の人が元気の出る仕掛けとして、祭礼を元の通り華やかにした。まずは東照宮祭。祭は華やか、賑やか、元気のいいのが一番。東照宮は神君家康公を祀った神社で、元和3年(1617)建立の日光東照宮が有名だが、名古屋東照宮は城内三の丸の地に元和5年に創建された。翌6年4月の東照宮祭には牛若丸と弁慶の人形が廻る「橋弁慶」のからくり山車が出現した。以後、城下の九ケ町からからくり山車が出て、その華やかさは「言語に述べがたい」ほどであった。昼の祭は東照宮祭、夜の祭は天王祭。享保18年6月、廣井天王崎社の天王祭は、津島神社の天王祭に倣って夜には巻藁船を5艘出し、いろいろ趣向に富んだ花火を打ち上げて、見物人が群集(くんじゅ)した。祭りを盛大にし、人々の参加を進めることによって、町に活気があふれ、ひいては町の発展につながることを宗春は知っていたのである。ちなみに、この東照宮祭は、かって名古屋祭と呼ばれていた。
 次の仕掛けは歌舞伎の賑わい。江戸時代一番の娯楽は、何と言っても歌舞伎・人形浄瑠璃に代表される芝居。質素倹約の享保の改革で、江戸、京都、大坂の歌舞伎や浄瑠璃が沈みかえっている時、名古屋だけは次々と芝居場所が増えていった。享保17,18年の名古屋の芝居小屋は56カ所。最大の繁華街本町筋の神社や寺院の境内、三廓はもちろん、町中の主だった寺社の境内にはたいてい芝居小屋ができた。西小路芝居はその屋根が八角形であり、他に例を見ないユニークなもので、デザイン的にも優れていた。歌舞伎の年間の上演本数はなんと百本を超えていた。芝居好きの殿様の評判は京都まで届き、「傾城夫恋桜(けいせいつまこいさくら)」という宗春をモデルにした芝居まで作られた。『享元絵巻」で紹介したように、東西の大歌舞伎の人気役者が次々とやってきた。七ツ寺の民谷半之助座では、舞台に水舟を作って本水(本物の水)を使い、観客の度胆を抜いたというし、若宮の岩井半四郎座では、豪華な天鷲絨(ビ□一ド)の衣裳で、観客に目を見張らせた。役者も豪華、芝居も派手、三都では萎んでいた芝居の醍醐味が名古屋で発揮された。夜芝居も行なわれ、昼夜を問わず賑わい、名古屋人の芝居鑑賞眼も養われ、芸処名古屋の礎が作り上げられていったのである。
 三つ目は遊廓の許可。江戸時代、幕府によって、江戸の吉原・京都の島原・大坂の新町の三カ所が公認されていたが、宗春は、尾張と将軍家は同等と考えていたので、幕府で許したものは尾張でも許可できるとして、三つの遊廓を公認した。西小路(中区松原)・冨士見原(中区富士見町)・葛町(中区正木)で、遊女はそれぞれ約250人・200人・250人、茶屋(遊女屋)はそれぞれ約30軒・35軒・45軒という繁盛ぶりであった。
 「老若男女貴賎ともに、かかる面白き世に生まれ逢うこと、ただ前世の利益ならん、仏菩提の再来し給う世の中かと…・・」と言われ、まさにこの世の極楽であった。この評判を聞きつけた他国の人々も、我も我もと名古屋に足を延ばし、宗春の狙いは見事成功した。
赤味噌、溜り醤油・・・…賛沢な名古屋の味
 この頃の名古屋の食文化は実に豊かなものだった。たとえば、享元期の若宮八幡宮の境内には、饂飩(うどん)、酒、肴、奈良茶、田楽、しっぽく、芝居の弁当、どじょう汁、赤味噌の田楽、うなぎの草摺焼(くさずりやき)、蛸・鮭・芋の串刺し、焼き海老、蒲焼…と、美味しそうな、思わず手が出そうな食べ物の店が立ち並んでいた。この他、蕎麦切り、色紙焼き(五色の麩を焼いたもの)、御手洗団子、あわ雪豆腐(寄せ豆腐様のものか)、餡焼き、いさご餅、祇園豆腐(串に刺して焼いた豆腐に練り味噌を塗って道明寺粉をかけた田楽)、大丸餅、姫饅頭、あこや菓子(真珠のような小さな米の粉団子)、木の芽田楽、幾世餅、赤福餅、姥が餅などがあった。赤福餅には「伊勢の国より飛び来たりて……砂糖沢山に入るなり」と説明、赤福餅を売る店の看板に、上から「餅くふかあ」と書いてあったそうだ。下から読めば「あかふく餅」。宗春の時代の食べ物の中には、京都・大坂や江戸から、賑やかな名古屋の町に乗り込んできたものも多かったが、おそらく、それらには名古屋人好みの味付けが加えられたろう。たとえば、赤味噌味と溜り味。赤い豆味噌とそれから絞った溜り醤油は、名古屋の味の基本といってもよいものだ。享元期の名古屋は、全国から集まってきた人々に、味の面でも多彩で、賛沢なものを提供し、舌を楽しませたのである。なお、徳川美術館では、この享元期の名古屋の味を実体験できる『宗春弁当』が売られている(要予約)。乞う、御期待。
中央への反骨精神と独自性
 享保17年は子(ね)年。宗春は元禄9年(1696)子年生れ。この年の歳旦(元日を祝う句)に、「春たつや東に冨士見西小路」「初春の子をも若やぐ新都」。前者は東方遥かに見える富士と宗春公許の冨士見原をかけ、さらに西小路遊廓を詠み込んで、立春から賑わう名古屋の町を詠んだ句。後者は初春を祝う楽の音(ね)と子年を掛け、また子の日の遊び(根延び=長寿の意=を込めて、野に出て小松を引いたりして遊んだ)の意を含ませてあり、何かにつけて新鮮で若々しい、いかにも新都名古屋の華やいだ新年の様子が読み取られる。
 宗春が藩主になって一年。国入りしてわずか数力月で、尾張一帯は見事に発展していた。名古屋の町中ばかりではなく、農村部でも、奈良本辰也氏によれば、春日井郡における陶器・大根(宮重大根:尾張藩献上品)・煎茶、海東郡(蟹江辺り)の西瓜、知多郡の陶器・たばこ、愛知郡の絞り染、武儀郡(美濃)の美濃紙、可児郡(美濃)の栗・炭などが、「あるいはその販路をひろげ、あるいは農民の副業として手広く生産され始め」て、産業が目覚ましい発展をみせた。その頃の藩内では「新しい生産の芽が続々と生い立って」いたのだが、「宗春の英断が火に油を注いだ結果となって現」(『日本の歴史』第17巻「町人の実力」<中央公論社〉)われたのである。これらは今も、この地方の重要な伝統産業として受け継がれている。宗春は尾張国全体の発展を考えていたのだ。
 宗春の一番の功績は、名古屋をはじめ尾張一円を元気づかせたことだ。八代将軍吉宗の享保の改革で質素倹約を強いられ、全国が打ち沈んでいた時、名古屋だけが盛り上がったため、実際以上に目立った面もあった。事実、宗春により元気いっぱいになった名古屋は、都市化が急速に進み、知名度が大幅に上がり、農村部でも米作以外の産業も飛躍的に発展し、結果的に人々の収入も増えたはずだ。宗春は蟄居謹慎により、政治の表舞台から消えたが、宗春の蒔いた種は着実に芽を出し、成長した。芸処名古屋もその一つだ。宗春の失脚で一度は沈滞したが、歌舞伎は5年後には再開され、文化年間には三都に継ぐ芝居地となった。茶道なども江戸時代後半の化政期(1804〜1830)から幕末にかけて大流行し、尾張藩は文政12年(1829)に抹茶禁止令を出したほどだ。謡・踊りなどを嗜む民衆の多いことは、現代まで続いている。芸能だけではない。宗春が示した反骨の精神は、中央に対する尾張の独立心を養い、名古屋独自の精神や文化を育てた。
 宗春の政治から、規制緩和、人間性重視の考え方を学び、現代に生かすことが、今のわれわれの緊急の要だと思う。