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中部文化論 第2回

 地芝居のたのしみ

安田文吉

(南山大学人文学部教授)
代々伝承されていく地芝居
『源平咲分牡丹(げんぺいさきわけぼたん) 重忠館(しげただやかた)の段」
『六千両後日之文章(ろくせんりょうごにちのぶんしょう) 重忠館の段」
『弓張月源家鏑矢(ゆみはりづきげんけのかぶらや) 八丈島の場』
『信濃宮物語大河原城(しなののみやものがたりおおかわらじょう) 旗挙(はたあげ)の段」
「曽我十二時(そがじゅうにとき) 揚巻助六(あげまきすけろく)の場」
 何やらむずかしそうな題名が並んでいるが、これらはすべて、地芝居独自の演目である。いわゆる松竹の大歌舞伎にはない。しかも、例えば『曽我十二時揚巻助六の場』は、歌舞伎十八番で有名な『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』と『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』を足して二で割ったようなもの。
 大歌舞伎の「助六所縁江戸桜』は、助六、実は曽我五郎が、養父曽我祐信(そがのすけのぶ)が箱根で紛失した源家の重宝友切丸詮索のため、新吉原で、遊客に喧嘩を売っては刀を抜かせ探索、それを恋人の花魁(おいらん)揚巻が助け、偶然巡り合った兄十郎もこれに協力、やがて、目指す刀の持ち主が、揚巻を助六と取り合っている髭の意久(いきゅう)(実は平家方の武将伊賀平内左衛門)とわかり、助六は意久を斬って刀を取り戻す、といった筋。
 『寿曽我対面』は、鎌倉幕府一番の重臣工藤祐経館へ正月の年賀に多くの大名、さらに、小林朝比奈・梶原景時景高父子、遊女の大磯の虎・化粧坂(けわいざか)の少将らが訪れ、祝いの言葉を述べているところへ、二人の若者がやってくる。二人は小林朝比奈の取りなしで工藤祐経に対面、それが十郎五郎兄弟と悟った祐経が、仇討ちを逸る五郎、それを止める十郎兄弟に盃を取らせ、さらに、富士野の狩り場の通行切手を、お年玉として与える、といった筋。
 新城の新城歌舞伎(愛知県新城市)の臼子(うすご)子供歌舞伎『曽我十二時 揚巻助六の場」は、助六実は曽我五郎が新吉原仲の町で友切丸を詮索しているが、そこへ、髭の意久ならぬ工藤祐経が、友切丸を携え、惚れ込んだ美浦屋の揚巻に会いに来て、助六との喧嘩になって、工藤の刀が友切丸とわかり、続いて、美浦屋の座敷で、工藤が助六を曽我五郎と、揚巻を十郎と見抜き、二人に狩り場の通行切手を与える、と言った筋。こんな芝居は今まで見たことがなく、とくに、揚巻が実は十郎にいたっては、ビックリ。ところが、東三河では、ごく普通の演目で、愛知県鳳来町下吉田在住で、「ふるさと文化学研グループ」代表の杉本功先生も、若い頃この揚巻を演じられたと聞いて二度ビックリ。しかも、台本はなく、村の長老が口移しで、セリフや所作(しょさ)を教えたと聞いて三度ビックリ。さらに、もともと床の浄瑠璃がなかったのを、後からつけたと聞いて、四度ビックリ。
 このように地芝居には、限られたごく狭い地域だけで代々伝承されていて、大歌舞伎にはない独自の演目や、同じ演目でも大歌舞伎とは演出や途中の筋が異なるものなど、貴重なものが多い。
 地芝居の特殊演出を一つ。「仮名手本忠臣蔵六段目勘平腹切の場」で、勘平が腹を切るのは、大芝居では、千崎弥五郎と原郷右衛門が、夜前、勘平が弥五郎に渡した五十両の金を、大星由良之助の命により返しに来たときで、両人とお軽の母おかやに責められて、ついに腹を切る。腑に落ちないのは、勘平が腹を切ってから、おやじ与一兵衛の遺体の傷を確かめに行き、「鉄砲傷には似たれども、まさしく刀で挟(えぐ)りし傷」とわかって、勘平が親父殺しの犯人ではないことになり(勘平が猪だと思って鉄砲で撃ったのは、人は人でも、実は与一兵衛を殺して金を奪った斧定九郎)、両人は勘平に「こりゃ勘平早まったことを」と言うが、すでに手遅れとなることだ。傷口を確かめるのなら、勘平が腹を切る前にするのが当然で、この演出は不自然で変だと思っていたところ、先年下呂の鳳凰座歌舞伎でこれが演じられ、ここでは、両人が傷口を確かめに行った隙に、勘平が腹を切ってしまう。それに気づかぬ両人が「まさしく刀で扶りし傷」と、勘平の無実を確かめて、振り返ると、勘平が腹を切っているので、驚いて「こりゃ勘平早まったことを」と言う。これは理に適った演出である。このことを、全国地芝居連絡協議会会長・義太夫協会会長で、元東洋大学教授の景山正隆先生に話したところ、「それは君、上方(かみがた)の型だよ」と事も無げに言われた。このように、地芝居には上方の演出・趣向を伝えているものも多いのである。
地芝居が多い中部地区
 中部地区は地芝居が多い。その中でもとくに、愛知・岐阜に多く、現在、全国約160の地芝居のうち、中部地区で約60、愛知・岐阜には約45の地芝居がある。愛知県は、前述の新城市に8座、その他、作手村・小原村・旭町・一宮町・設楽町・豊橋市・豊川市・春日井市などに、岐阜県は、串原村・蛭川村・白川村・加子母村・久瀬村・上矢作町・明智町・山岡町・福岡町・坂下町・白川町・下呂町・八幡町・揖斐川町・垂井町・養老町・古川町・瑞浪市・恵那市・中津川市・各務原市などにあって、いずれも元気いっぱいで芝居を演じている。この他、長浜市の曳山子供歌舞伎・小松市の曳山子供歌舞伎・米原町の曳山子供歌舞伎・烏羽市答志島の答志島歌舞伎・湖西市の湖西歌舞伎・引佐町(静岡県)の横尾歌舞伎・南木曾町(長野県)の田立歌舞伎・下条村(長野県)の下条歌舞伎・大鹿村の大鹿歌舞伎(長野県)・長谷村の中尾歌舞伎(長野県)・東部町の東町歌舞伎(長野県)・砺波市の砺波子供歌舞伎・柳田村(石川県)などがある。大鹿歌舞伎や設楽の谷高座(やかたざ)などは海外までも出かけたり、小松市では毎年曳山子供歌舞伎大会が開かれるなど、広域の活動も盛んだ。
 ところで、地芝居が成立したのは元禄頃と言われる。元禄と言えば、江戸では初代市川団十郎が荒事芝居を作り上げた時期、京・大坂では、近松門左衛門・坂田藤十郎・竹本義太夫らが活躍していた頃である。このころ地芝居が成立したとなると、こちらの歴史も大歌舞伎に劣らず古く、それだけに伝統もあるのだ。地芝居は、農・山・魚村芝居がほとんどで、氏神さまの春祭り(豊作祈願)・秋祭り(豊作感謝)に、奉納芸能として境内の舞台で演じられる。だから、普通は舞台のみで、観客席にまで屋根の付いた、いわゆる芝居小屋は珍しい。全国でも、東濃地区、木曽川と飛騨川に挟まれた三角地帯にのみ、この小屋型の舞台がある。福岡町の常磐座・蛭川村の蛭子座・白川町の東座・加子母村の明治座・下呂町門和佐の白雲座・下呂町御厩野の鳳凰座・各務原市の村国座などが今も使われているが、これを見ても、この地域の地芝居の隆盛が知られる。
新城(愛知県)歌舞伎
「傾城阿波の鳴門どんどろ大師」
下呂町(岐阜県)鳳風座芝居
「心中宵庚申八百屋献立」
上松町(長野県)獅子芝居
「仮名手本忠臣蔵七段目」(獅子は「お軽」)
地芝居は地域活性化を促す
 地芝居がなぜ始まったかははっきりしない点も多い。芝居は江戸時代を通じて、庶民の一番の娯楽であったが、江戸や京都・大坂の三都、それに次ぐ名古屋(尾張)、そして、伊勢・宮島・琴平といった参詣地などの繁華な地を除いては、いつも芝居が見られることはなかった。都市へやってきた村人が、芝居を見て魅了され、故郷へ帰ってからも、芝居が見たいと思ったのは自然の成り行きであった。買い芝居といって、例えば、名古屋に出演していた芝居の一座を、恵那まで呼んで(買って)きて村中で見たりしているが、こういうのも簡単ではなかった。来てくれる旅一座を探さねばならないし、費用もかかる。それで、村人自らが演じる地芝居が次第に盛んになっていったと思われる。
 ところが、地芝居は、江戸時代においては一般には禁止だった。禁止令を奉納芝居の名目でかいくぐり、さまざまな手段を講じて目こぼしを得て、全国至る所で行なわれた。年中粗末な野良着で土にまみれている農民にとっては、きらびやかな衣装(キラという)を身に付け、武士にも変身できる芝居は、たった一つの楽しみであった。中部地区、とくに愛知の東三河・岐阜の東濃飛騨で盛んであったのは、東三河は、いわゆる徳川家康直属の三河武士の出身地で旗本領が多く、また飛騨は天領で、こういったところには代官がいるのみなので規制が緩やか、東濃は尾張藩領が多く、尾張は初代藩主徳川義直以来、殿様から町人に至るまで芸能好きであった上、尾張は幕府から半ば独立した性格をもっていたので、幕府の規制を気にすることなく、地芝居が上演できたからであろう。
 こうした事情を背景とする地芝居は、地狂言・田舎芝居とも言うが、歌舞伎とは言わない。できるだけ刺激的な言い方は避けて、上演できる実をとってきたのである。近年、地歌舞伎などという言い方が広がっているが、これは地芝居の歴史を無視した呼称だ。マスコミがこうした伝統文化を紹介するときは、やはり十分な注意が必要である。伝統を無視した呼称を、安易に用いるのはいかがかと思う。
 今、地芝居は、空前のブームといってよいほどの盛り上がりを見せている。登場人物になりきって、化粧をし衣装を付けて、舞台に立っ快感は何とも言えない。その上、武智光秀にも織田春長にも真柴久吉にも大星由良之助にもなれる。日本人のものの考え方も自然と知られる。また、お稽古を通じて、日本語や道具の扱い方・行儀作法も身に付く。地芝居は、舞台に出る人だけではない、衣裳・髪・顔師・大道具・小道具などを用意することによって、地域の人々の交流も図られる。もちろん、演じる人と見る人の交流もある。遠くからきた観客によって、芝居のみならず、特産品の売買、名所旧跡観光などの地域間交流も促進できよう。総じて地域の活性化が図られ、町づくり・村づくりに効果大である。