2003年までの文章は雑誌からスキャニングして作成しておりますので、誤字がありましたら申し訳ありません。

劇場・ホールの計画  第3回

劇場・ホールの運営と市民参加
清水裕之
(名古屋大学大学院エ学研究科建築学専攻教授)
公立文化施設の法的根拠と舞台芸術施設との不整合性
 博物館には博物館法、図書館には図書館法、公民館には社会教育法があるのに対して、公共ホール(公立文化施設)には基本となる法的根拠がない。なぜ、法的根拠のない施設が、あちこちに建設されるのだろうか。なぜ、地方自治体はその設置と運営を自分たちの課題の一つだと理解しているのだろうか。唯一の根拠は「普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設(これを公の施設という)を設けるものとする。」という、地方自治法第244条の「公の施設」という概念規定である。公の施設には広い意味では道路なども含まれるのだが、建築施設の事例として「市民会館」などの集会施設があげられている。
 「公の施設」は「普通地方自治体は、正当な理由がないかぎり住民が公の施設を利用することを拒んではならない」、「住民が公の施設を利用することにっいて、不当な差別的扱いをしてはならない」と規定している。このような法的枠組みを忠実に解釈すると、抽選や先着順による許可、一組織に長期的に貸し出すことの制限など悪平等といわれる杓子定規な管理運営が生まれるのである。
 他方、芸術創造の本質は極めて選択的、競争的である。レベルの高いものを抽出し、取り上げる選択的審美眼が事業者(制作者)側に要求される。作品をつくりあげるためには、少なくともある一定期間は施設を占有して仕上げる必要も生まれる。とくに舞台芸術のように上演する現場でつくりあげる性格のものは、占有性が必要とされる。このような選択的な事業決定や利用をどのような形で認知し、公の施設概念と調停していくことができるのだろうか。
公立文化施設をめぐる3つの外部性
 公の施設という足かせをはめられているという点で、公立文化施設はヨーロッパの公立劇場やアメリカの地域劇場とは大きく異なる。そして、このことは、特徴的な3つの外部依存性を生み出した。一つ目は、組織の外部依存性である。公立文化施設は多くの場合、自治体職員を中心に運営されている。そして、貸し空間業の性格を基本としているため、施設の維持管理に必要な最小限のスタッフは常駐するものの、舞台芸術を創造するための組織、すなわち、劇団、楽団、舞踊団、制作組織、製作場の技術者などの芸術系、技術系スタッフは基本的に雇用されていない。すなわち、そこで何かを創造するためには、外部組織の力を借りなければならない。
 二つ目は、事業の外部依存性である。事業を自ら企画実行する力(組織)に欠けるため、その遂行には外部の組織の力を借りる必要がある。
 三つ目は空間の外部依存性である。単に組織が外部依存しているだけではなく、多くの公立文化施設には、作品を創造するのに十分な稽古場、道具を製作するための作業場や倉庫なども不足している。また、あったとしても、それらは貸し空間業の対象となっていることが多く、公の施設の規定から外部利用が優先され、自分たちの事業に利用しようとしても使えない。
創造システムの充実
 上記のような外部依存性が強い公立文化施設にどのようにして創造性を生ましめるか。これが90年代の大きなテーマとなった。具体的には施設の目的を明確にさせ、創造行為と公の施設概念の調停を現実的な方法で行なおうとする動きである。地方自治法も若干改定され、公共施設の運営を事業費の管理も含めて実質的に公益的な第三組織へ委託する道が拓かれた。そこで、舞台芸術の振興を目的に掲げた財団等の公益組織をつくり、そこへ事業委託することで、公の施設の枠組みを逃れ、事業における創造性と自立性を確保するという動きが加速された。
 際立った例は、静岡県舞台芸術センターである。運営は芸術総監督鈴木忠志を筆頭とする舞台芸術活動に目的を絞った財団に委託され、劇団や舞踊団などの創造組織が設置された。そして、さらに芸術面の予算執行権と人事権を芸術総監督が掌握するシステムをつくり、芸術創造上の芸術総監督の立場を海外の公共劇場並みに強化させた。
 また、日本で最初のNPO法人に認証された富良野演劇工房は、今年秋に完成予定している富良野芸術の森劇場の管理運営を全面的に受託することになった。このように、創造システムと施設を結ぶ新たな管理運営体制が着実に構築されつつある。
公共性の概念変化
 上記のような民営化の傾向をともなう、公立文化施設の創造機能の強化は、90年代に高まった多元的公共性を持つ社会を構築する世界的な動きと連動している。社会学者ハーバーマスは名著『公共性の構造転換』で、公共性概念の歴史的変遷を追いつつ、自立した私人による議論(公論)が公共性の原点であり、それを支えるのが生活世界という枠組みであること、そして、現代は肥大化した経済システムと政治システムによって、生活世界が再植民地化されていることを指摘している。とくに筆者が注目しているのは、公共性を意味空間として把握しやすいように、空間概念を援用し、公共圏という言い方を提案する花田達朗の見解と、アメリカの社会学者を中心に指摘されている多元的公共性の考え方である。わが国では公共性は地方自治体の専売特許のように考えられてきた。戦後推進された福祉国家政策は私的領域から生まれる公共性を行政がすべて引き受けようとするあまりに、かえって市民の公共性に対する意識を希薄化させてしまった。しかし、行政は必要最小限で画一的な施策しか行ないにくい。広く多様な事業を実施するには財政も破綻する。そうした限界が見えてきたため、もう一度原点に戻って、人々がお互いに公共性を担保しあう仕組みづくりが必要であるとの発想が生まれている。
 東欧諸国における共産圏の崩壊が、文芸活動などを下敷きにした市民の動きから始まったという史実も市民の持つ公共性の力を再認識させた。わが国では阪神淡路大震災におけるボランティアや民間非営利団体の活躍が目に焼き付いている。
 こうした状況を公立文化施設に当てはめると、多様な市民文化の拠点となるべき公立文化施設が地方自治体の運営に頼っているという状況自体が批判の対象となるのは当然である。市民自らが公共施設の運営に参加すべきであるという意識の誕生である。金沢市民芸術村の24時間市民管理は、そうした行政と市民の意識のぶつかり合いから生まれたと言っていい。行政から、何にも言わないから自由にやってみろといわれた市民たちは、主体的に動く組織を立ち上げ、公共性の概念形成とそれに基づく事業の実施を自ら行なうことにした。この負担は結構重い。実質的に運営責任を負っている市民ディレクターたちはその責務の重さと仕事の大変さに疲労困憊している。しかし、そうしたある種の犠牲をともなっても、得たものは大きい。市民が自ら公共性とは何かを考え、公益的な事業を情報開示のなかで行なっていくという価値は何にも代えがたい財産となって金沢に息づいている。
参加のしくみづくり(計画段階での情報開示と参加)
 参加型社会における新しい公共施設作りの試みとして、構想作りや設計段階からの市民参加も話題になっている。これまで公共施設の計画を請け負った研究者や設計者は、発注者として行政と向かい合って仕事をしてきた。地域の住民は計画段階や設計段階の意思決定プロセスに参加する道はほとんど閉ざされていた。市民の意思決定は、市民が選んだ議会を通して行なえばよいという考え方であった。しかし、議会では、施設の設置を認めるとか、その財政的な根拠を検討するといった大きな枠組みの決定は得意とするが、施設の構成や運営などについての深い個別の議論は行ないにくい。また、個別の課題についての判断を聞き得ない選挙によって選ばれた議員がどこまで市民の要望を代表できるかという疑念もある。民主主義の根幹を担う議会を軽視するわけではないが、個別の案件については、市民に対する情報開示と意思決定プロセスヘの参加をできるだけ用意すべきだという考え方が浸透しつつある。企画段階や設計段階での情報公開や意思決定過程における市民の参加プロセスの用意は、もはや避けて通れない課題となっている。しかし、設計者や計画者の間にはまだ、この必要性や重要性に関する認識が甘いように思われる。また、具体的な参加の技法の開発も十分ではない。いまだに、設計者選定は特命が一番とのんきなことを言う建築家が多いのも気にかかっている。もはや不正行為の発生しやすい設計者選定においても、意思決定プロセスの開示が決定的な時代になっているのだが。