2003年までの文章は雑誌からスキャニングして作成しておりますので、誤字がありましたら申し訳ありません。

都市寸景 105
関ケ原より 第2回
合戦、その顛末
文・写真 岐阜地域会/車戸慎夫
 1600年9月15日、霧が晴れた午前8時過ぎ、東軍の松平忠吉と井伊直政が福島正則隊の横から、西軍の宇喜多隊に発砲。福島正則は先陣を奪われまいと、宇喜多隊に襲いかかり、決戦の火蓋が切られた(写真@)。
 笹尾山(写真A)に陣を構える石田三成隊には、黒田長政や細川忠興らの軍勢が攻撃を仕掛け、戦局は一進一退となる。混戦のなかで三成は、かねての約束通り、天満山に狼煙を上げ、松尾山(写真B)の小早川秀秋や南宮山の毛利秀包、吉川広家に進撃を合図するが、東軍に内応している小早川と吉川の両者は動こうとしない。
 桃配山の初陣から(写真C)陣を移した(写真D)家康は、正午になっても勝敗が決しないことにいらだち、松尾山の小早川隊に向け発砲すると、これに驚いた小早川は、西軍の大谷吉継隊に攻めかかる。大谷吉継は防ぎきれずに自害し、小西行長と宇喜多秀家の両隊も敗走する。
 石田三成隊も善戦しつつも(写真E)、ついに敗れ、伊吹山中へ逃亡する。最後まで残った島津義弘隊は、西軍の敗北が決定的になったのを見て、全軍一丸となって東軍の中央を突破し、伊勢街道(写真F)から南へ向かい、鹿児島へと逃走する。この時、甥の島津豊久が命をかけて東軍の追撃を防ぎとめる(写真G)。
 こうして、天下分け目の合戦は、午後2時ごろに、東軍の大勝で幕を閉じる。
@開戦地 A笹尾山。石田三成隊陣跡 B開戦地から見た小早川隊の松尾山
C家康最初の陣跡。壬申の乱で天武天皇が桃を配ったという伝説が残る桃配山。家康が最初に陣を構え、午前10時ごろまで指揮を執る D家康最後の陣跡。西軍武将の首実験も行なわれた E決戦地と笹尾山。関ケ原合戦でもっとも激戦が繰り広げられたところ。石田三成隊が奮戦
F島津隊が逃走した伊勢街道 G島津豊久の墓 H東首塚。首実験後、東西2カ所に分けて埋葬したのが首塚