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劇場・ホールの計画  第2回

この50年で劇場・ホールの計画はどのように変わってきたか
清水裕之
(名古屋大学大学院エ学研究科建築学専攻教授)
1950〜1960 公会堂の劇場化時代
 佐藤武夫が『公会堂建築』(1966年)で述べているように、1950年代から60年代にかけては「公会堂の劇場化の時代」といえる。劇場化は同時に「多目的ホール化」でもあった。
 佐藤は、「利用の種目はどれもが多様であり雑多である。このような多様の利用に耐える内容機能を具有するためには、いきおい無性格なものとなる恐れがあると考えられよう。だが、それではいけないのである。無性格という性格ではなく、積極的に多元的に耐える多目的ホール、という性格付けが必要である。(中略)具体的な例をひくならば、舞台の面積は多目的ホールなるがゆえに単元的な目的をもついかなるホールよりも広くなければならないし、控え楽屋の類も数多く、そして大きくあらねばならぬ。照明の装置や音響の調整も、幅の広い機能を要求される」(P.43〜44)と述べている。
 佐藤の主張は、従来の公会堂建築がさまざまな文化活動が要求する機能水準を満足していないという現状認識にほかならない。
 それでは50年代のホール建築には具体的にどのような変化が起こったのか。戦前の公会堂建築である『名古屋市公会堂』と佐藤の手による『文京公会堂』を比較してみよう。
 大きく違うのは舞台である。名古屋市公会堂にはほとんど袖がなく、簡単な演劇はともかく、道具類の出入りを多く要求する演目には応えられない。クッペルホリゾントという舞台芸術対応の特殊設備が象徴的に用意されているにもかかわらず、総合的に見ると劇場機能はほとんど達成されていない。これに対して、文京公会堂では袖が広げられている。客席もすべて舞台の方を向き、鑑賞しやすい形が追求されている。舞台の裏には上手から下手へ抜ける通路がとられ、楽屋が機能的に配置されている。すなわち、舞台芸術に対して基本に忠実な建築計画へと転換が図られつつあるのである。しかし、そのような改良が行なわれているにもかかわらず、現代の水準からみると、舞台間口に対して奥行きが浅い、舞台開口部が非常に広いなどまだまだ不都合なところも多い。建設費の制限や設置者の意識の違いなどで、一気に理想的な形までもっていくことが困難だったのかもしれない。歌舞伎や日本舞踊のための回り舞台と、クラシック音楽のための回転式の音響反射板の併設は舞台設備における異質なもの同士の妥協を象徴している。
 50年代から60年代の公立ホールの施設構成についても触れておきたい。この当時の公立ホールには付帯施設として、会議室、結婚式場、展示場、食堂・喫茶などが設置された。とくに特徴的なのは結婚式場であったが、民間の結婚式場やホテルで結婚式を行なう習慣の定着によって70年代には利用者が大きく減少し、必要性が急速に消滅した。
1960〜1970 技術の急速な進歩
 60年代中頃に入ると公立文化施設に新たな展開がおこった。それはきわめて高度な仕様をもった劇場建築や文化ホールの登場である。すでに50年代にも『神奈川県立音楽堂』など専用化の傾向はみられるのだが、60年代には『東京文化会館』『国立劇場』『日生劇場』など、オペラ、古典芸能、演劇など用途を絞った大規模で充実した機能を持っ施設が登場する。これらの施設では西洋の劇場計画が詳細に調査され、また、同時に建築家と舞台芸術・技術の専門家の緊密なコラボレーションが図られた。たとえぱ日生劇場(1963)においては、設計段階から吉井澄雄等の舞台技術者が関与した。国立劇場の設計においても、歌舞伎という伝統芸能の上演をめざしながらも、オペラ劇場由来のルントホリゾントを設置したり、本来フラットで変化をそれほど要望しない歌舞伎の照明に彫塑的な光を与えるスポットライトを多く用いるなど、劇場技術の面では強い西洋指向を見せている。
 60年代から70年代にかけて建築音響設計の技術も長足の進歩を遂げた。戦後、各地に音楽の鑑賞組織が結成され若い鑑賞人口を集めるようになり、西洋音楽は、日本舞踊や歌舞伎などの伝統芸能に代わって、多目的ホールの主要な演目となった。こうした社会の嗜好変化は、優れた音響環境のホールを強く要請するようになった。そこで、NHK技術研究所や大学の音響研究室のリーダシップによって建築音響の技術開発が進んだ。音楽のための音響技術の発達は、演劇指向の舞台設備計画と強い軋轢を生んだ。音響反射板は、クラシック音楽にとっては必需品であるが、演劇には不要である。そこでそれを格納する方法が試みられ、試行錯誤の結果、舞台上部のフライズに格納する方法が一般化する。しかし、この方法には、舞台上部を大きく占領する不都合があった。そこで、『NHKホール』や『神奈川県民会館』のように、蛇腹式シェルを舞台後方に格納する方式が考案された。しかし、多くの文化ホールでは設置の簡便性や建設コストの安さが優先され、フライズヘの格納が多く採用された。
1980〜1990 専門ホール化の時代
 80年代にはいると、多目的ホールの矛盾が「多目的は無目的」という言い方で、社会的に大きく指摘され、専門ホール化の傾向が強まる。大阪に朝日放送が『ザ・シンフォニーホール』を設置し、サントリーが東京に『サントリーホール』を設置すると、民間を中心に一気にコンサートホール競争時代に突入する。公立施設においても、『熊本県立劇場』のように、大ホールをクラシック・コンサートホールに、中ホールを演劇ホールに性格分けをする先駆的事例も登場した。現代舞台芸術を対象とした『第二国立劇場』(新国立劇場)のプロジェクトも具体的な計画段階にはいり、演劇系、オペラ系の専用劇場や技術も高められていく。『青山劇場』では、大型の迫りとワゴンの組み合わせによる床機構や電動可変速の吊りもの装置が高い技術水準で設置され、ようやく世界の標準に到達し、『愛知県芸術劇場大劇場』では、新国立劇場を先取りするオペラ劇場仕様が一足先に実現された。
 劇場の専用化は、創造機能の空間の充実を促した。稽古場機能や製作場機能の充実である。稽古場の設置は劇場がオリジナルな舞台芸術を制作していこうとする意志の現れでもある。製作場の設置は劇場の管理形態や技術部のあり方と深い関係にある。多目的ホールでは施設管理が主体であった劇場技術者に、道具の制作、照明や音響のプラン(デザイン)など創造的で市民をリードする役割が期待されるようになる。プロを対象とする水準の高い創造事業を行なう公共ホールでは技術者の創造水準は一流のレベルにあることが要求されるようになる。しかし、多くの公共ホールにおいて、こうした資質のある技術者の雇用や要請が十分に行なわれているとは言えない。
1990〜現在 劇場・ホールの多様化
 90年代になると、公共ホールの形態はますます多様性を帯びてきた。
 一つの方向は『世田谷パブリックシアター』や『彩の国さいたま芸術劇場』が示している。比較的小さい客席に広い舞台と充実した舞台設備をもっ専用劇場、あるいはその複合に、そこで演じる作品を創造するための複数の稽古場や製作場が付属した複合体である。世田谷パブリックシアターは企画の段階から演出家佐藤信がリーダーシップをとり、力量のある劇場技術者集団が建築家をサポートした。そして完成後、彼らは自ら運営者として劇場に残った。公共施設において、設計から運用まで一貫して舞台関係者が責任を持ってかかわったまれな事例である。この点では彩の国さいたま芸術劇場も作曲家諸井誠が企画の段階から関与し、設置後は芸術総監督として運営のリーダーシップをとっている。
 島根県八雲村にある『しいの実シアター』も別の方向性を示している。アマチュア劇団が八雲村と協力関係を築き、150席の小さな村立劇場の運営を引き受けている。一種の公設民営によるレジデントシアターである。
 劇場を持たない公立文化施設のあり方もある。地域の文化活動は、美術、音楽、演劇ぱかりではなく、文芸、料理、情報、あるいは科学技術までも含む多様なものである。そうした多様な文化活動が日常的に行なわれるような場所は、大きな劇場施設を中心に構成されるよりは、自由な箱がいくつもあるような、発想をまったく異にした施設のあり方が考えられる。24時間市民管理で話題をさらった『金沢市民芸術村』はそのようなあり方を示唆している。(文中敬称略)