2003年までの文章は雑誌からスキャニングして作成しておりますので、誤字がありましたら申し訳ありません。

都市寸景 104
関ケ原より 第1回
関ケ原合戦と大垣
文・写真 岐阜地域会/車戸慎夫
 今からちょうど400年前の西暦1600年9月15日、天下分け目の関ケ原合戦が、大垣の西方20kmの関ケ原の台地で繰り広げられた。
NHKの大河ドラマ『葵徳川三代』、第9回「風雲大垣城」(3月5日放映)のサブタイトルのごとく、合戦前夜、大垣を中心とする西美濃を舞台に、さまざまなドラマが繰り広げられている。
 徳川家康、石田三成の東西両軍は、最後の決戦に勇躍して、全国から西美濃の地に集結し、そのだれもが大垣城こそが決戦地となると信じていた。実際、大垣城は天下のゆくえを決める重要拠点として、東西両軍が攻防を繰り広げたことが史実として残っている。
 家康は当初、大垣城を水攻めにし、天下分け目の合戦も、30日間は続くものと考えていた。しかし、城攻めよりも野戦を得意とした家康が、巧みな陽動作戦を仕掛け、石田三成は9月14日夜、降り続く雨のなか、関ケ原を決戦の地に選び、大垣城を後にし、そして9月15日、8時間の天下分け目の戦いが関ケ原で繰り広げられることとなる。
 三成が大垣城に入城し、西軍の本拠としたのは8月10口、その後、大垣城には小西行長も入城し、大垣城の北に宇喜多秀家や島津義弘も布陣して、東軍との決戦に備える。
 8月23日に岐阜城を落城させた東軍は、翌24日、大垣城の北西4km、赤坂の岡山に空堀と土居をめぐらせた堅固な本陣を築き、家康の到着を待つ。家康は9月1日、江戸城を出発し、14日に岡山本陣に着く。すぐに大垣城に向けて、金扇馬標、葵紋旗、白旗20本を建て並べ、東軍の士気を高める。
 一方、家康の着陣を知った西軍の兵士に動揺が広まり始める。三成の家臣、島勝猛は士気を鼓舞せんと、蒲生郷舎とともに杭瀬川に向かい、一隊を川の手前で伏兵にし、杭瀬川を渡って東軍を誘う。東軍の前衛である中村一栄の兵がこの挑発に乗り、偽って敗走する西軍を深追いして、杭瀬川を渡ったところを、伏せていた西軍に襲撃され、30余人が討ち死にする。この杭瀬川の戦いこそが、西軍唯一の勝ち戦となる。
 大垣城公園では、3月25日から10月9日まで「決戦関ケ原大垣博」が開催されています。ぜひ、西美濃の歴史・文化を探訪していただければ幸いです(資料は、「大垣博公式ガイドブック」および「西美濃わが街」を参考にさせていただきました)
大垣城。合戦前夜、三成はじめ西軍の拠点 西軍唯一の勝ち戦の地、杭瀬川 赤坂岡山の家康本陣跡。後に「お勝山」と呼ばれる
岡山より関ケ原を眺める